科学の証明

科学は全てを証明し得るだろうか。

少なくとも、すでに世の中の事象の大部分は科学に拠って説明可能に思える。

例えば、神の存在や人の感情、魂、心、愛憎、善悪、 自然災害 、政治システム…
無知な人類が、それを補う想像力で育み打ち立ててきた存在や概念は、今やその殆どが科学的かつ論理的に説明できるものだ。

もしかして、地球上の事象のみならず、全宇宙の事象の全てが、科学によって解明される日は近いのではないか?


しかし、現実はそれとは程遠い。

人の感情を例に挙げてみよう。感情は、脳内のニューロンの電気信号による複雑なアルゴリズムの産物であることは周知の事実である。それは決して、心の揺れ動きや魂の叫びなどといった目には見えない神秘的な事象ではない。しかし、仮に「喜び」を定義するアルゴリズムAがあったとして、それがなぜ人にとって喜びの感情と自覚させるのか、また別のアルゴリズムBは、なぜ人を「怒り」に震えさせるのか。仮に、脳の電気信号を忠実に再現できる機械とプログラムがあったとして、アルゴリズムAを発火させればその機械は「喜び」を自覚するだろうか。感情のアルゴリズムは、まだ完全には解明されていない。

神はどうか。古来より人々が崇めてきた神は存在しないということは、科学的に説明可能だ。しかし、未だ我々の知らない新たな神と位置づけるべきものが100%存在しないとは言い切れないし、仮に物理的な神が今も昔もこれからも存在しなかったとして、それでも信仰の対象としての神の存在が科学的には全く無意味とは断言できない。

社会科学の観点から、民主主義という概念は今でこそ人類が導き出した最善な答えに思える。しかし、ウィンストン・チャーチルの言葉を借りるなら 「民主主義は最悪の政治。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けば」 となる。社会主義の失敗を引き合いに出して民主主義こそが最適解と説くことはある程度可能かもしれないが、それが絶対的な正解などと誰が説明できるのか。

愛には理由がある。しかし、人々はしばしばその理由を説明しきれない。あまつさえその甘美な存在を、醜悪な憎しみに挿げ替えたりする。愛とは何かと問うたところで、要領を得ない答えが返ってくるだけだろう。

善悪は定義だ。人に親切をして施すことは善と定義されるだろう。人を殺めることは悪と定義される。しかし、施しを受けた人間は堕落する可能性があるとしたら?敵を殺すことでしか助からない命があるとしたら?
善悪の定義は時代や状況によって変化する。一体何が善で何が悪か。人類史が始まって以来、それらが確定し不変のものになったという気配はない。


冒頭で、世の中の事象の殆どは科学的に説明できると述べた。
それが全面的に誤りだとは思わないが、上述の通り、まだまだ世の中には科学の力を以てしても難解で不明瞭なことが多い。

果たして、人類が全宇宙の事象を科学の力で解き明かし、それによってあらゆる困難や不幸を払いのける日は来るのだろうか。

宇宙の無限で爆発的な拡大を(本当に拡大しているのならば)上回るほどのスピードで科学が発展し続けない限り、そのXデーの到来は夢幻にさえ思えてくる。
であるならば、人類は科学に変わる代替案を用意しておくべきか?
または、非科学的な超常現象を拠り所にして、終末に向けて逞しく生きていく道を模索し続けるべきか?

否、我々にはやはり科学の力が必要だ。

これまで、科学の進歩によって多くの不可能が可能になった。
永遠に宿命づけられたかのように思えた人々の苦しみのいくつかは、科学の力によって葬り去られた。そして、世界には科学では説明しきれない事象や解決されていない問題が無数に存在し続けている。
つまり、科学にはまだ発展の余地が数多く残されているということだ。それは、人類にはまだ幸福になれる余地が十分に残っているという意味でもある。

これからも、人類が非科学的な拠り所を必要とするタイミングはあるだろう。たとえその拠り所が、実はとても科学的で物理的な事象に由来するものであったとしても、人々の理解がそれらに追いついていない以上、非科学的なアプローチは避けては通れない。

しかし、人類が幸福と発展を求め続ける限り、科学の発展への道が途切れることは決してない。科学は非常に優秀な幸福実現のツールだが、まだまだ万能とはいえないからだ。

科学の証明は、まだ始まったばかりだ。

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